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人生朝露

人生朝露

長岡半太郎と荘子。

『荘子』の中にある進化論的な部分と自然観の一部を書いてきたわけですが、荘子と科学を語る上で、この二人は外せません。

長岡半太郎(1865~1950)。 
長岡半太郎さんと、

湯川秀樹(1907~1981)。>
湯川秀樹さんです。

教科書的な説明で言うと、長岡半太郎さん(1865~1950)は、原子核モデルを提唱なさった方。湯川秀樹さん(1907~1981)は、中間子の理論で日本人初のノーベル賞を受賞された方。いずれも日本を代表する物理学者ですが、お二人の揮毫された書が大阪大学(旧大阪帝国大学)の理学部にあるそうです。

「勿嘗糟粕」(糟粕嘗むる勿れ) 甲戌夏日 楽水。
長岡さんの「勿嘗糟粕(糟粕嘗むる勿れ)」は『荘子』の天地篇にある「古人の糟粕」という故事から、

「天地有大美而不言」 の書 湯川秀樹。
湯川さんの「天地有大美而不言」は『荘子』の知北遊篇からの引用です。

参照:長岡半太郎「勿嘗糟粕」湯川秀樹「天地有大美而不言」
http://www.sci.osaka-u.ac.jp/students/handbook2009/graduate/intro.html

荘子です。
この二つの言葉は、不思議なことに双方とも荘子に由来します。

長岡半太郎(1865~1950)。 
今回はまず、長岡半太郎さんから。

参照:Wikipedia 長岡半太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E5%8D%8A%E5%A4%AA%E9%83%8E

長岡半太郎さんは、歴史に名を残す大物理学者でありますが、実は学生時代、相当苦労をなさったようです。もともと芽が出にくいタイプであったばかりか、大変奔放な性格もおありだったようです。東京帝国大学に入ったときも、大学を休学なさっています。ちょっと変わった方だったんですな。もともと江戸の生まれの方ですし、漢籍に興味がおありだったようで、物理学の道か漢学者の道かでずいぶんなやんでいらっしゃったそうです。休学の理由も「東洋人が、科学的分野において、西洋人に対抗することができるのか?」ということをご自身で調べたかったからだそうでして。そりゃ、あなた、日本人が黒船でぶったまげてから、まだ30年くらいのころですよ。近代化といってもまだ猿真似程度しかできなかった頃に、理系の分野で東洋人がやっていけるのか?と考えるのは自然なこと・・とはいえ、休むかねぇ(笑)。

いずれにせよ、一年の休学中に長岡さんは漢籍の書物を読み漁ります。
中江兆民が「民約論」を翻訳する前に漢籍を読み漁ったのと同じです。

その結果、
≪「支那における渾天儀(天文観測機)、暦法、指南軍(黄帝)、北光の観測(山海経)、有史以前に属します。○戦国時代恒星表(石氏、甘氏)、太陽黒点(?)、天の蒼々たる、これ本色か(荘子)、微分の観念(恵施)、共鳴の実例(荘子)、雷電の説明(荘子)、エネルギーの概念(荘子)(二千三百年前)、金属の研究、○銅錫の合金(礼記、周公、二千九百年前時代)、鉄製刀剣(二千二百年前)。大砲と解釈される霹靂車、すなはち火薬の利用(千七百五十年前)。ことごとく支那独創的のもの。ギリシャ、ローマより渡来せるにあらず。」
 かくして得られた結論は、
「これほどの研究があるからには東洋人でもこれに専念すれば終に欧米に遜色なきに至らんと確信を得るに至りました。これが私をして物理学に執着するに至らしめた根源であります」≫(湯川秀樹著「長岡先生の休学」より引用。)

これは、明治の長岡半太郎青年の知識をもって、漢籍の書物から拾い集めた「東洋の科学史」の痕跡なんです。いくつかは荘子から発見しています。

>これほどの研究があるからには東洋人でもこれに専念すれば終に欧米に遜色なきに至らんと確信を得るに至りました。これが私をして物理学に執着するに至らしめた根源であります。

ということで、長岡さんは物理学の道に進むことを決心なさったそうです。今では日本人のノーベル賞の受賞も決して珍しくはなくなりましたが、最初の一歩を踏み出した方は、紀元前の人間の手による古典を読んでいたんですな。

で、この中でこれは凄い、というのが「天の蒼々たる、これ本色か」(「荘子」 逍遥遊篇)です。

荘子です。
「北冥に魚がいる。その名を鯤という。」

「荘子」の冒頭、逍遥遊篇はこの文章から始まります。「鯤(こん)の大きさは、幾千里か分からないほどだ。化して鳥となり、鳥になった鯤は鵬(ほう)という。」というところから、読者はいきなり跳躍どころか、想像力をはたらかせて、飛翔をせねばならんのです。その後に、

荘子です。
「天之蒼蒼、其正色邪。其遠而無所至極邪。」(天の蒼蒼たる、其の正色なるか。其れ遠くして至極する所なければか。)
→「空が青々としているのは、本当の空の色だろうか?それとも遥かに遠く離れているからそう見えるだけではないだろうか?」

青い空。
・・・ここに長岡半太郎は驚いたわけです。「空がなぜ青いのか?」という問いについての科学的な答えは、ジョン・ウィリアム・ストラット(レイリー卿)という人が19世紀に入って光の拡散によって証明したものなんですが、これを紀元前の荘子は「空が青いのは遠いからではないか」と考えているわけです。正解です。

参照:Wikipedia レイリー散乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%BC%E6%95%A3%E4%B9%B1

科学の大百科 光が散乱する?
http://salmon.nict.go.jp/snews/rayleigh/omake/index.html

むか~しですね、ビートたけしという人がテレビで、「お前の見ている赤と、俺の見ている赤は同じ色か?」というような話をしていて、衝撃を受けたことがあります。物の大きさや、形、なんていうものは、目で見たり、手で触っていれば、大体概念としては同じでしょう。でも、「色」というのは、網膜に映って脳に伝達する段階で、人それぞれの「違う色」として認識しているかもしれないでしょ?「リンゴは赤い」というときの「赤」というのは、「リンゴは赤い」ということが共通しているだけで、私にとっての「赤」のヴィジョンは、誰かにとっての「青」のヴィジョンであってもおかしくないわけです。で、ビートたけしって言う人は頭がいいな~~と、感心した記憶がこびりついていたわけですが、この話を大学の時に湯川秀樹さんの物理学講義の本の中で発見して、「湯川さんが先に考えているじゃないか!」などともう一度、感心したんですよ。上には上がいるなぁと。

ところが、湯川さんは荘子の「天の蒼々たる、これ本色か」からヒントを得たそうです(笑)。上には上の上がいる。

・・ただ、遠くの山を見れば緑のはずの山は青く見えます。遠くの山が青いことが分かれば、「遠いから空が青い」っていうことは、簡単に分かりますよね?大した発見ではないようにも見えます。でも、それだけじゃないんです。

もう一度「荘子」。
「天之蒼蒼、其正色邪。其遠而無所至極邪。其視下也亦若是、則已矣。」(天の蒼蒼たる、其正色なるか。其れ遠くして至極する所無ければか。)
→「空が青々としているのは、本当の空の色だろうか?それとも遠く離れているからそう見えるだけではないだろうか?」

のあとに、

荘子です。
「其視下也亦若是、則已矣。」(其の下を視るや、亦是くの若くならんのみ。)
→「(鵬という鳥のように遥かなる空を飛んで)地上の世界を上から見れば、同じように青いのだろう。」
と、続きます。

かぐやによる地球の出の映像。
人類誰もが考える「空がなぜ青い」という問いから「遠い空からみれば、大地もきっと青い」というところまで考えた人は、紀元前では荘子だけでしょう。数十年前にガガーリンが言うまでほとんどの人が気付かなかったことです。そうです。青いんです。遠いから。

・・という話は、実は、当ブログでは、二年前に書いたんです。

参照:当ブログ 2007年4月16日 空はなぜ青いのか?
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200704160000/

で、長岡半太郎さんの文章を今更読んでみたんです。

参照:物理學革新の一つの尖端 長岡半太郎 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/001153/files/43643_24367.html

そうしたら、
>これと前後して明瞭になつたことは、原子が陽電氣を帶ぶる核と、陰電氣を帶ぶる電子の或る數からできてゐて、陰陽相均しき場合に普通の状態に在ることである。

とあります。これ、面白い表現で、老子の考えに似ています。
『道は一を生じ、一は二を生じ、三は万物を生じる。万物は陰を負いて陽を抱き、沖気以って和を為す。』(「老子」四十二章)

ま、本来の陰陽説では陰陽というのは、「奇数」と「偶数」なんですよ。+と-ではなくて。でも、長岡さんは普通に、陽子のプラスと電子のマイナスを陰陽と表しています。今では「陰性」「陽性」というように使うけどね。

で、ここで、長岡さんを考えながら、ふと、思ったんです。
老荘に詳しい長岡さんといえば、
土星型原子モデル。
原子モデルを土星型にした方でもあるんですが・・

老子に、
『有物混成、先天地生。寂兮寥兮。独立不改、周行而不殆。可以為天下母」(物あり混成し、天地に先立ちて生ず。寂たり寥たり。独立して改めず。周行して殆(あや)うからず。以って天下の母と為すべし。』(『老子』第二十五章)
→天地が生まれる前から、混沌とした中に物がある。大変静かなものだ。独立して変わらず、普く行き渡りながら危うさがない。これを天下の母とするべきだ。

ここに、「周行而不殆」(周行して殆(あや)うからず)とあります。周行というのは、本来は「あまねく行き渡る」ということです。

・・・でも、もし、この「周」の字を、今の日本人が言うように「回転する」という意味に意訳したら?万物の法則に敷衍したら、?

土星。
土星の輪のように、

太陽系。
太陽の周りを回る惑星のように、

原子モデル。
電子もまた、陽子の周りを「周行」しているとしたら・・・?

太極図です。

いや、本当に参考にしたかも・・。

今日はこの辺で。


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